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僕の数年間の苦しみの原因は自分自身と世界の不完全さを許容することができなかったことにある。もちろんそれだって一つの暫定解にすぎないのだけれど。こうした注釈を挟んでしまうこと自体に何か芝居がかったものを感じる。美しい文章を表面的に真似しようとして完全に失敗している滑稽で哀れなあり様。だから僕は文章を書くことが好きではなかった。僕の言葉は他人の言葉でしかなくて、あまりにもたくさんの手垢にまみれていて、その醜さを直視することができなかった。けれど何かを表現する上でこういったプロセスは避けては通れないのだろう。優れた文筆家は簡潔な言葉を使う。彼らの紡ぐ言葉は必然的であるがゆえに美しい。しかしその美しさの背後には目に見えない無数の補助線が引かれている。僕は今、療養のために文章を書いている。不必要な言葉を付け加えることで美しさが損なわれたとしても、自分自身の感情が正確に言葉に換えられているという事実のほうがより重要だ。話が脇道に逸れてしまったようだけれど、結局この話も最初に述べた不完全さの許容というテーマと結びついている。

 

世界は嘘と欺瞞で満ちている。ポップソングの歌詞で何遍も使い古されているであろうフレーズだが、紛れもない事実だ。僕は18歳の時にそれをぼんやりと感じ取った。人より少し遅かったかもしれない。偏差値が支配する価値体系の中に安住していた僕はあまりにも無防備だった。困惑し、錯乱し、停止した。たくさんの宗教が僕に手を差し伸べていた。その内側にある嘘を感じ取った瞬間に怒りが沸き起こった。僕はその一つ一つに嘘というラベルを貼りつけていった。気がつくと僕の周囲に存在しているものすべてが嘘に置き換わっていた。僕は完全に美しいものを求めた。それはヘッセの小説であり、モネの絵画だった。そういうものに触れているとき、僕の心は安らいだ。僕は彼らと同じ世界にいるのだと感じられた。しかしそこにも欺瞞があった。命を賭けた戦いの末に美しさを勝ち取った彼らと、あらゆるものから逃げ続けた末の慰みに彼らの生み出した美しさに触れている僕とでは、何もかもが違っていた。彼らは創造者で、僕は乞食だった。そして僕は自分自身に嘘のラベルを貼りつけた。

 

不完全さを許容するということは、不完全さの中に留まること許容するということとイコールではない。今の自分を受け入れることが大事だというありふれたメッセージを聞かされるたびに、そんなものは自己欺瞞だと切り捨ててきた。しかし不完全な自分自身を許さないということは、自分以外の不完全な一切の事物を拒絶することを意味する。中にはそういうやり方で生き抜く人もいるのかもしれないけれど、凡人には到底不可能だろう。憔悴しきっていたとき、僕はニーチェの思想に深く傾倒した。心の中で「ああ、その通りだ!」と叫び、涙を流しながら『ツァラトストラかく語りき』を読んだ。しかし現実の僕はあまりに不完全で未熟な存在だった。彼の説く理想は僕をさらに追い詰めた。それを実践することはできない自分は生きる価値がないのだと悟った。そして僕は限りなく死の淵に近づいた。僕が彼の思想を正確に理解していたかどうかは疑わしい。感情移入が強くなされるときにはその本を正確に読むことはできない。だからニーチェの思想それ自体について言及することは適切でないが、彼の言葉を通じて僕の中に形作られた思想は僕にとって僕自身を破壊する力を持つものだった。

 

人間は完全な存在に近づくために生きている。それを諦めて偽の現実の中に安住することを選んだ人間を僕は愛することができない。だが僕は完全さを求めてさまよう不完全な人間を愛する。孤独な者同士が身を寄せ合うことは欺瞞だろうか。欺瞞を内に含むことは悪だろうか。欺瞞の中に真実は一つも存在しないだろうか。僕はそれらをもう一度自分の目で確かめる必要がある。